南海泡沫事件とミシシッピ・スキーム(1720)—— 国家ぐるみで起きた史上最大級のバブル

1720年、ヨーロッパで2つの大きなバブルがほぼ同時期に弾けた。ロンドンの「南海泡沫事件(South Sea Bubble)」と、パリの「ミシシッピ・スキーム(Mississippi Scheme)」である。両者に共通するのは、バブルの主役が単なる民間企業ではなく、国家の財政再建と直結した「特権会社」だった点だ。チューリップ・マニアが民間レベルの投機だったのに対し、この2つは国家ぐるみで起きたバブルとして、近代金融史のなかでも特異な位置を占めている。

E2 では、この2つのバブルを並べて整理する。アイザック・ニュートンが資産の大半を失ったエピソード、ジョン・ローという稀代の金融イノベーターが国家を巻き込んだ顛末は、現代の投資家にとっても示唆が大きい。

背景 —— 18世紀初頭の戦費財政

17世紀末から18世紀初頭にかけて、英仏両国はスペイン継承戦争(1701〜1714)をめぐって長期の戦費を抱え込んでいた。戦争終結後も、両国の国債残高は GDP 比で過大な水準にあり、財政再建が国家的課題となっていた。

  • 英国:1714年時点の国債残高 約4,000万ポンド(GDP の数倍規模)
  • フランス:1715年のルイ14世死去時、国家債務 約30億リーヴル

この巨額の国債を、新興の海外貿易会社の株式に「強制的に転換させる」スキームが、両国でほぼ同時に試みられた。これが、南海会社とミシシッピ会社をめぐるバブルの出発点である。

ミシシッピ・スキーム(1716〜1720)

フランス側の主役は、スコットランド出身の経済学者・銀行家ジョン・ロー(John Law、1671〜1729)だった。ローは、当時としては革新的な「兌換紙幣を中央銀行が発行する」というアイデアを持ち込み、1716年に Banque Générale を設立、1718年には Banque Royale(王立銀行)に発展させた。

その並行で、フランスの北米植民地(ルイジアナ、ミシシッピ流域)の独占権を持つ「ミシシッピ会社」(Compagnie du Mississippi、後に Compagnie des Indes に統合)の株式を、王立銀行の紙幣で買えるようにした。次のような連鎖が走った。

  1. 王立銀行が紙幣を増発する
  2. 個人がその紙幣でミシシッピ会社株を買う
  3. 株価が急騰する
  4. 株価上昇の信用で、さらに紙幣が増発される
  5. 新興のルイジアナ植民地への期待が、株価を支え続ける

1719年〜1720年初頭、ミシシッピ会社の株価は500リーヴルから10,000リーヴル超まで20倍に高騰した。当時のフランスでは、誰もが投機に参加し、ローは事実上の財務大臣として絶大な権力を持った。「百万長者(millionaire)」という言葉が初めて使われたのも、このバブル期である。

しかし、植民地の実態(湿地帯ばかりで生産性が低い)が次第に知られ始め、1720年5月にはローが株価維持のため紙幣の増発を加速させたが、紙幣そのものの信認が崩れた。1720年末までに株価は95%以上下落、王立銀行の紙幣は紙くずとなり、ジョン・ローは失意のうちにフランスを去った。

南海泡沫事件(1720)

英国側のバブルは、南海会社(South Sea Company、1711年設立)が主役だった。同社は当初、スペイン領南米との奴隷貿易と通商を独占的に行うことを名目に設立された。だが現実の貿易事業はほとんど機能しておらず、利益の柱は「国債を株式に転換するスキーム」のほうにあった。

1720年初頭、英政府の国債約3,000万ポンドを、南海会社株と交換する大規模な転換計画が議会で承認された。次のようなロジックである。

  • 政府は、利息支払いの重い国債を、配当義務の軽い株式に振り替えられる
  • 南海会社は、引き受けた国債の利息収入を、無リスクの利益として計上できる
  • 株式と引き換えに国債を渡した投資家は、株価上昇分の利益を期待

1720年1〜6月、南海会社の株価は130ポンドから1,000ポンド超へ7倍以上に高騰、ロンドンの上流社会、政治家、王族までも参加するブームになった。同時期、便乗的に「Bubble Companies」と呼ばれる怪しげな新興会社が次々と設立され、「将来発表する事業のために資金を集めますが、何の事業かは秘密です」と謳う冗談のような会社の株まで取引された、と記録されている。

南海会社が、こうしたブーム便乗会社を排除するため「Bubble Act」(1720年6月成立)を議会に通させたが、皮肉にもこの法律が「他社のバブルを潰した結果、南海会社の株も売られる」というきっかけとなった。1720年9月までに南海株は1,000ポンドから150ポンド近くまで暴落、多くの投資家が破産した。

アイザック・ニュートンの損失

南海泡沫事件で、しばしば引き合いに出されるのがアイザック・ニュートン卿(1642〜1727)の逸話だ。当時の造幣局長官であったニュートンは、1720年初頭に南海株を保有しており、約100ポンド以下で買って一旦は7,000ポンドの利益を確定して売却した。しかし、その後も株価が上がり続けるのを見て、再度高値で買い戻し、最終的に約20,000ポンドの損失を出したと言われている。

当時のニュートンが「天体の運動は計算できるが、人間の狂気は計算できない」と語ったというエピソードは、史実かどうか諸説あるが、近代科学の祖をしてもバブルから免れることが難しいことを象徴する話として、今でも繰り返し引かれる。彼の損失額は、当時の価値で職人の200年分の年収に相当した。

2つのバブルの構造比較

南海とミシシッピの構造を比較すると、いくつかの共通点が浮かび上がる。

  • 国家の財政課題への結合:戦費による巨額国債を、株式への転換で削減する目的
  • 独占権の付与:海外貿易・植民地の独占的権利を株主に約束
  • 資金供給とのカップリング:英国は信用拡張、フランスは紙幣増発で買い手を支えた
  • 政治家・王族の関与:トップ層が利害関係を持ち、規制が遅れた
  • 実体経済との乖離:実際の貿易・植民地事業は、ほとんど機能していなかった
  • 急速な信用消失:いずれも数か月でピークから9割超下落

このうち、「国家財政との結合」は、現代の暗号資産・量的緩和・GLP-1 医薬品ブームなどと比較するとそれぞれ程度差があるが、「中央銀行の流動性供給と資産価格の連動」という構造は依然として残っている。2020年以降の超緩和局面でリスク資産がオーバーシュートしたパターンと、ジョン・ローのスキームには、メカニズムとしての類似性がある。

その後のヨーロッパ金融への影響

2つのバブル崩壊の後遺症は、長く尾を引いた。

  • 英国:Bubble Act(1720〜1825)により、株式会社の設立が事実上規制され、産業革命までの100年以上、ジョイントストック方式の活用が遅れた
  • フランス:紙幣への信認が崩れ、革命前夜まで信用通貨制度が定着しなかった。これがアシニア紙幣(1789)の失敗にもつながる
  • 近代金融市場の発達はオランダから英国へシフトし、19世紀のロンドンが金融の中心となる土台が作られた

歴史家のジョン・ケネス・ガルブレイスは「バブルは記憶を消去する」と評したが、同時に、バブルの後遺症は規制と制度として国家に長く残り続ける、というのも同時に指摘されている。Bubble Act の100年延長は、その典型例だ。

新興国投資への含意

南海とミシシッピのバブルから引き出せる、新興国投資への教訓は次の通りだ。

  1. 政府が深く関与する独占的な特権会社は、規制と政治変動のリスクが大きい
  2. 植民地・新興地域の「未開発の収益機会」というナラティブは、過大評価されやすい
  3. 中央銀行の紙幣増発と資産価格上昇が連動している局面は、いずれ反転する
  4. 政治エリートが大量保有している銘柄は、政権交代でリスクが顕在化する
  5. レバレッジを伴う投機は、流動性消失の局面で致命傷になる

新興国の特権的国営企業(中国の国有銀行、サウジアラムコ、メキシコの Pemex、ロシアの Gazprom など)に投資するとき、これらの教訓は、形を変えて何度も思い出すべきポイントになる。「政府の意向で株価が動く銘柄」は、平時には強い追い風があるが、政治的変節の際にはもっとも脆弱なタイプである。

次回は、より現代寄りのバブルとして「ドットコム・バブル(1995〜2002)」を取り上げる。インターネットという真に革命的な技術の登場が、なぜここまでバリュエーションを跳ね上げ、そしてどう崩壊したか。ヤフー、シスコ、アマゾンの当時の PER 推移を辿りながら、その全体像を整理してみたい。


画像クレジット: Ylanite Koppens 氏(Pexels)/Pexelsライセンス(商用利用可、帰属表示義務なし)

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